朝帰りの休息

ときめきと狂気のはざま

恥ずかしい

私は恥ずかしながら、もういい大人になった今でも一人でお店に入るのが苦手だ。

 

飲食店は特に。そして初めてのお店は特に。

それから飲食店以外でも他に人がいないような路面店洋服屋さんとか雑貨屋さんとかも。

 

ド◯ールとか、スタ◯とか、そういう行き慣れたチェーン店はまぁ大丈夫。

(さすがにそれもダメだったらいよいよ暮らせない)

ただやはり得意でもない。

 

行き慣れたチェーン店でも得意でないのは、席を探したりするのが嫌なのだ。

 

誰も私なんかみていないのに、なんか恥ずかしいのだ。

ドア入ってすぐの一人席とか空いてたら絶対そこにする。ガラガラに空いていたりしたら最高なのに…

 

自意識過剰なのだ。

だってそうに違いない。

 

席が空いてなくてすごすご帰るのは恥だと思ってる。みじめだと思ってるのだ。

 

初めてのお店で私が入って、買わなかったらどう思われるんだろう、身なりとか、うちに合わないなとか思われるかもしれない。

 

いやでも聞いてほしい。

誰もそんなこと気にしていないのは知ってる。

誰も私に興味を示さないと知ってる。

知ってるけど、なんかできないのだ。

 

恥ずかしい。ただただそれにつきる。

 

もっと一人で活動的にできたら人生楽しいだろうなとは思う。

思ってるけど、できないのがやはり自分なんだよなと思う。

無理にやっても居心地悪いのだもの。

 

これは一生付き合う性分なんだろうなと思う。

 

 

 

 

 

かわいそうな本

昔塾に通っていた。

 

全体的にはすごく成績が悪いというわけではなかったが、

算数がとにかく大の苦手で(国語は得意だった)そのため塾に通わせてもらっていた。

 

とくに思い出もなにもなく、ただ勉強しに行っていただけだが、最近になってふと思い出したことがある。

 

ソフィーの世界

私が初めて読んだ哲学書…と言ってもいいのかもしれない。

なんだかわかるようなわからないような。

面白いわけでもないけど面白いような気もする。

でもわかりたい、そういう気持ちになったように記憶している。

 

どうしてだかその本の話になり、私は塾の先生にそれを貸したのだ。

 

貸したまま返ってこなかった。

 

私が塾を辞める日、先生は表紙がボロボロになった『ソフィーの世界』をもってきて

 

長いこと借りたままで、こんなにしてしまって申し訳ない

 

というようなことを言ったと思う。

そして、これで代わりに買ってくれ、と図書カードを渡そうとしたのだ。私に。

 

子供ながらに受け取れなかった。

 

いらないです、大丈夫です、

 

そんなことを言ったのだと思う。

 

帰宅して親に告げた時

「そりゃ受け取れないよね、また新しく買おう」と言ってもらった。

私は自分だけで判断した受け取らなかったことが、間違いではなさそうだということに安心した。

 

そのまますっかり忘れていたけれど、最近なぜかふと思い出したのだ。

 

あれは、、、ひどかったな…

 

私は傷ついたんだと思う。

単純に本が返ってこなかったことではなくて、ボロボロの表紙になった本。

 

かわいそうだった。あんな姿になって。

何度も何度も読まれてボロボロになった本は、愛情でいっぱいだ。

でもそうじゃない。それはわかった。

 

正直特別好きな本でもなかった。

でも不思議な気持ちにさせてくれた本ではあった。

 

いや、好きでも好きじゃなくても、本は私にとってはとても大事なものなのだ。それがあんな姿になって。

 

かわいそうだった。救ってあげられなかった。

そんな気持ちになった。

 

あの時私はちゃんと傷ついてたんだな。

大人になってようやく受け入れられたと思った。

 

 

 

 

読書のリハビリ

すっかり小説というものを読む機会が減ってしまった。

仕事に関する本は読んでいたものの、私も完全にスマホに依存した生活で、確実に集中力が落ちてきていることを痛感していた。

 

これではいかん。

何か人間にとっての大事な感覚が消えていく感じがする、、、

 

と思い、読書のリハビリを開始することにした。

最初は本屋さんで買って読んでいたが、期限を決めよう、と図書館を併用することに。

 

図書館だと返却期限があるためそのときまでに読まなければいけない。

 

最初はゆとりを持って1.2冊借りるところから始めた。

そしていきなりがっつりした小説を読むのではなく、以前読んだことがあるものやエッセイ本などからスタート。

 

ああすっかり読書脳と読書体力が減ってしまっている。。。

 

そう、体力とは別に運動のときだけに必要なものではない。

映画を観るにも、舞台を観るにも、ゲームをするにも、絵画を観るにも、スポーツを観戦するにも、漫画を読むにも、そして本を読むにも、それぞれの体力というのが必要になるのだ。

 

でもリハビリを開始したことでずっとモヤモヤしていた気持ちは晴れた。

とりあえず動き出すことは大事だ。

 

少しずつ本を読む楽しさを思い出してきた。

この作家のこういう文章の書き方が、ぞっともするし惹かれる部分だったな、なんてことも思い出した。

 

日常生活を見る目が変わる。なんでもないことも立派な物語なのだ。

春の陽射し

私は秋から冬にかけてが一年の中で一番すき。

 

空気が澄んで空が綺麗で、余計なものがなくなっていく感じがする。

濁ったものが取り払われて「ちゃんとしてくる」感じがする。

とくに朝は最高だ。「また生まれた」という感じがする。

感覚が研ぎ澄まされる感じもする。食材のこともあるだろうが私はこのためにごはんが美味しくなるのではないかと思っている。

冬にかけては人や街全体がそわそわし始めるのもいい。

朝もいいけれどやはり夜もいい。

少しだけのさみしさ。それがかえってあたたかさを蘇らせてくれる。

暗闇が深い青から漆黒に変わっていくのもいい。

 

そんなわけで私は秋から冬を大変あいしているわけだが、春先、日が長くなってくるとそのきらめきに思わずときめいてしまう。

 

なんと輝かしく、なんと透明感をもって街がみえることだろう。

こんなにも瑞々しく、美しい街だったのか、と驚く。

 

人間は太陽がないと生きていけないな、と思いながら、なんとなく秋や冬を裏切ったような気持ちになる。

 

そうしてそのときめきを、そっと胸の奥にしまうのであった。

バンコク

以前ある時期よくバンコクに行っていた。

毎回私は体調を崩した。寝込んで一日潰してしまうような大きな崩し方ではなかったが、気持ちが悪くなったりひどい頭痛がしたり立ちくらみがしたり、そういうことはしょっちゅうあった。

 

対策は行くたびにして行った。

食事の変化が大きいとも聞いたので、持っていける日本食は持って行った。玄米を毎朝食べた。梅干しにはかなり助けられた。でも完璧ではなかった。

 

辛いものが元来苦手なので、現地での食事も割と控えめでさっぱりしたものを食していたが、体調がすこぶるいいとは言えなかった。

 

暑さもこたえた。(とはいえ今では日本の方が暑いらしい。)

クーラーもかなりきついので、冷やさないようにレッグウォーマーを持ち歩きつつ、風通しがよいものを着用した。

それでも体調を崩さなかったことはなかった。

 

何回目かの渡航で気づいたことがある。

私には「刺激が強すぎる」のだ。

 

音が大きい、そしてたくさんの音がする。

目に飛び込んでくる色が多色だ。文字の量も多い。

その上、人も多いし、車も多い。

東京も人や車は多いけど、音と色は少ないのだ。

 

エネルギーが大きすぎるのだ。私には。

私のエネルギーの量なのか方向性なのかわからないけれど、とにかく太刀打ちできない。

一度やられてしまう。

 

毎回渡航前には「行きたくないな」と思う。

行ってる最中も「もう行きたくないな」と思う。

 

でも帰ってきて数ヶ月経つと、不思議とあの大きなエネルギーの渦がとてもとても恋しくなるのだ。

ラーメン

まぜそばを食べるたびに、

私は汁につかったラーメンがいいなと毎回思う。

 

だからもうずっとラーメンを食べればいいものの、まぜそばをみると

「美味しそうだな」

と思う。

 

で学ぶことなくまた頼む。

 

でも毎回ラーメンを超えることはない。やっぱりラーメンの方が好きだなと思う。

 

今そんなこと聞いてない

◯◯が好きで、って言った途端、

 

「あー、私・俺はそれダメなんだよねー」

って言うやつ!!なんなんだ!!

 

最初の一言目それ!?

 

まずは

「そうなんだ」

を挟めないかね!!

どうかしてるぜ!ほんと。

 

いや別に好きじゃなくていいんだよ。

同じ気持ちとか、同じもの好きとか、そんなことを求めているわけじゃないよ。

たださ、、真っ向から否定する必要ってないじゃないか。

それにだよ!

今こっちの話してるんだよ。

そっちの話しなんか聞いてねーーっつーの!!

 

…自分も気をつけよう…

人の好きなものは尊重する!!!